大正 7
15

電気が普及しはじめた時代。
電器堂、創業

大正7年、電“氣”堂の屋号で創業。電気技師だった初代、加茂 忠を中心とした、家族経営の小さなお店として事業を開始しました。日本はまだ都市部から郊外に向けて電化を進めている途中で、電氣堂の販売商品も白熱電球や電気材料が中心だったようです。大正末期には日本の近代化に合わせ、蓄音機のような、実用品ではなく生活に潤いを与えるための電気製品も増えてきました。

  • 大正7年2月 創業
当時の鍛冶町通り

当時の鍛冶町通り

当時使用されていた金庫。「電氣堂」と書かれている

当時使用されていた金庫。「電氣堂」と書かれている

昭和元年
19

商いの多様化とともに、街の憩いの場に

昭和に入ると、電氣堂は最先端の蓄音機など高級音響機器の品揃えも充実させ、オーディオ愛好家からも注目を集めるようになっていきます。途中、時代に合わせて電“気”堂と屋号を改めつつ、店舗内でレコード店や喫茶店も経営し、浜松の街に”憩い”を提供するようになっていました。昭和10年代にはラジオが人気を博し、販売商品の中心はレコード、ラジオに移っていきます。

  • 昭和初期 鍛冶町85番地に本店を構える
  • 昭和12年頃 加茂雅章が修業より戻り事業を拡大
  • 昭和15年頃 松下幸之助氏との関係性が深まる
  • 戦時中 ラジオとさつまいも」のエピソード
鍛冶町の風景。現在のモール街入口。手前のビルに電と堂の文字が見える(昭和15年)

鍛冶町の風景。現在のモール街入口。手前のビルに電と堂の文字が見える(昭和15年)

当時の街並みを示した地図

当時の街並みを示した地図

昭和 20
29

戦後の復興に、商機を掴んで

一面の焼野原から始まった、浜松の戦後。いち早く復興を始めた電気堂は、昭和22年、鍛冶町10番地に店舗・事務所・倉庫・自宅を兼ねる社屋を建設し、株式会社化(その後、屋号を電器堂に)。トラックの少ない時代、自分達の手でペンキを塗り社名を入れた大きな荷台付の自転車が、当時の営業車だったそうです。ほどなくして戦後復興が本格化。電線・積算電力計などの電材の需要も高まり、事業規模は飛躍的に広まって、営業車にはオート三輪が導入されていきました。

  • 昭和20年6月 浜松大空襲、電気堂も焼失
  • 昭和20年代 店舗屋上に「ナショナル」の電飾広告塔を設置
  • 昭和22年4月 株式会社電気堂設立(後に屋号を電器堂に変更)
     松下電器産業、松下電工、ソニーなどの代理店として大井川以西の
     卸販売を手掛ける
  • 昭和20年代 店舗屋上に「ナショナル」の電飾広告塔を設置
鍛冶町で行われた広告カーニバル。写真左端に「電気のデパート電器堂」と書かれた幕が見える(昭和24年)

鍛冶町で行われた広告カーニバル。
写真左端に「電気のデパート電器堂」と書かれた幕が見える(昭和24年)

正月初出荷の記念写真。全社員とその家族が映っている(昭和29年)

正月初出荷の記念写真。
全社員とその家族が映っている(昭和29年)

昭和 30
39

卸売業に特化して、急成長

一般家庭への家電製品の普及が急速に進み、業界にも小売と卸売の区分けが生まれてきました。電器堂も昭和33年に家電部門を分社し、卸売業に専念。戦後の高度経済成長に合わせて交通や公共施設への大型投資が続き、工場やビルの建設ラッシュで電材業界も大いに湧きました。電器堂は時代の流れをつかんで右肩上がりの成長を続け、昭和29年からの約10年間で、社員数・売上ともに倍増を果たしています。

  • 昭和31年 電材部 成子町に新築移転
  • 昭和33年4月 家電部門分社・浜松ナショナル製品販売設立
  • 昭和38年10月 住友電気工業の静岡県総代理店となる
  • 昭和39年3月 袋井営業所開設。広域拠点展開が始まる
当時の電器堂本社(昭和33年)

当時の電器堂本社(昭和33年)

初売り日の打ち上げ風景。左に加茂雅章社長の姿がある(昭和30年代初頭)

初売り日の打ち上げ風景。左に加茂雅章社長の姿がある
(昭和30年代初頭)

「東京通信工業(現ソニー) SONY-RADIO TR-72」。当時の最新ラジオであり、東通工初の輸出モデル

「東京通信工業(現ソニー) SONY-RADIO TR-72」。
当時の最新ラジオであり、東通工初の輸出モデル

昭和 40
49

街をつくっている。その誇りを胸に

本社移転から始まった、電器堂の昭和40年代。時代は高度経済成長期のまっただ中で、浜松市をはじめ県西部だけを見ても大規模な工事が相次ぎ、電器堂の営業部も日中は引っ切りなしに注文の電話が鳴っていたといいます。昭和44年以降、磐田・掛川に立て続けに営業所を開設。塩町本社も5年とたたずに手狭になり、昭和46年には現在の卸本町に本社を移転しました。瞬く間に変わっていく街の風景や会社の姿に、社員一人一人が「街をつくっている」という強い誇りを感じていた時代でした。

  • 昭和40年12月 本社を塩町129番地に移転
  • 昭和45年 浜松市フラワーパーク新築工事に電設資材納入
  • 昭和46年1月 本社を卸本町93番地に移転
浜松市フラワーパーク開園(昭和45年)

浜松市フラワーパーク開園(昭和45年)

卸本町本社(昭和46年)

卸本町本社(昭和46年)

当時の浜松駅前から西方を見る。年々ビルが増えていった

当時の浜松駅前から西方を見る。
年々ビルが増えていった

昭和 50
64

電気が豊かな生活を支える時代へ

皆が必死に上を目指してきた時代が終わり、人々が自分自身にもう一度目を向け始めてきたころ。それまでは実用品中心だった電器堂の売り上げ比率も大きく変化し、シャンデリアが人気だった照明機器がその4割を占めるなど、世の中に「豊かな生活」が広がっていることが実感されました。商材の種類が大きく増え、「お客様にとって必要なものを探り、提案する力」が強く求められるようになってきたのも、このころからです。

  • 昭和55年頃 浜松駅北口地下広場に屋外照明システムを納入
  • 昭和59年 吉田インター営業所(島田市井口)を開設。中部エリアへの足がかりとする
浜松駅北口広場やバスターミナルが続々建設され、浜松の玄関口は大きく変わった

浜松駅北口広場やバスターミナルが続々建設され、浜松の玄関口は大きく変わった

昭和52年商品構成比。昭和22年と比べると照明需要の高まりがわかる

昭和52年商品構成比。昭和22年と比べると照明需要の高まりがわかる

平成元年
10

卸売業の枠を超え、
電気の総合パートナーに

昭和末期から本格化した省エネ技術は、平成に入ってさらに幅広い環境対応技術へと昇華。建物や工場、施設には高い環境対応が求められるようになり、長期にわたる省エネ・環境負荷低減のカギを握る電気設備の期待は年々増していきました。そんな時代の変化を受けて、電器堂は単なる卸売業の枠を超え、電気に関するご要望にトータルな解決策を提案する、電気の総合パートナーとしての地位を確立していきました。

  • 平成2年 浜松アリーナへ電設資材納入
  • 平成3年 本社・物流センターを卸本町2000番地16に拡張移転
  • 平成5年 アクトシティ浜松へ照明・電設資材納入
  • 平成6年 静岡営業所(静岡市下島)を開設。中部エリアの事業開拓を本格開始
  • 平成8年 浜松市フルーツパーク(当時)に電設資材納入
浜松アリーナへ電設資材納入(平成2年)

浜松アリーナへ電設資材納入(平成2年)

アクトシティ浜松へ照明・電設資材納入(平成5年)

アクトシティ浜松へ照明・電設資材納入(平成5年)

平成 10
~ 現在

そして次の100年へ

サッカーワールドカップの開催、富士山静岡空港の開港など、静岡県がグローバル社会への対応を進めていく象徴的な施策に電器堂も参加。中でもエコパスタジアムの大型ビジョンは国内有数の規模で、電器堂にとっても大きなチャレンジとなりました。また、家庭用・事業所用の太陽光発電や蓄電池など、電力自給自足の実現にいち早く取り組み、地域に根差したエネルギー政策に貢献。新エネルギー分野でも地域トップクラスの実績を築いており、現在も記録を更新し続けています。
これまでの100年余り、人類にとって最も身近なエネルギーだった電気。これからの100年も、きっと主役であり続けるでしょう。
電器堂も最も身近な電気のパートナーとして、次の100年も街に寄り添っていきます。

  • 平成11年 豊橋営業所(豊橋市富士見台)開設。愛知県へ初進出
  • 平成12年 エコパスタジアムに大型ビジョン・電設資材納入
  • 平成20年 新エネルギー事業部立ち上げ
  • 平成21年 富士山静岡空港に照明・電設資材納入、太陽光・省エネ設備の体験型展示場 SOLAE開設
  • 平成27年 住宅用太陽光発電システム受注累計1,800棟達成・産業用太陽光発電システム受注累計1,000件(約47MW)達成
エコパスタジアムに大型ビジョン・電設資材納入(平成12年)

エコパスタジアムに大型ビジョン・電設資材納入(平成12年)

富士山静岡空港に照明・電設資材納入(平成21年)

富士山静岡空港に照明・電設資材納入(平成21年)

太陽光・省エネ設備の体験型展示場 SOLAE開設。新エネルギー事業のセカンドステージへ(平成21年)

太陽光・省エネ設備の体験型展示場 SOLAE開設。新エネルギー事業のセカンドステージへ(平成21年)